村山は元大蔵官僚、大蔵大臣、大光顧問として、当然、駒形社長らの乱脈経営を知る立場にありました。
しかし、初出馬のとき、「大光なくして村山の当選はなかった」と評判になったほどの選挙での"恩"から、逆に大蔵、日銀当局に圧力をかけて、駒形らの不正をかばい、もみ消しをはかったのではないかとの見方がなりたってくる。
そうみると75年に元大蔵官僚大塚俊二が専務として天下り、78年11月、事件の社会問題化とともに駒形に代わって社長に就任した背景がかなりはっきりしてくるのです。
したがって、79年5月の隠し債務保証と赤字の発表も、金融再編成をねらった、金融制度調査会答申がまとめの作業に入る時期に焦点を合わせて、「大蔵・日銀の『参謀本部』が練り上げたシナリオ」(『新潟日報』1979年5月20日)にもとついて行なわれたものという見方が説得力をもってくるのです。